本日もブログを書いてみよう。
私には、自分で書いたその日のブログを何度も読み返す癖があるようです。
きのうと同様に、
文末がですます調の敬体と、~だ・~である調の常体の使い分けができていないブログになっていますが、今日もこのまま混在させて気分で書いてみます。
きのうの自分のブログを何度も読み返し、自分でツッコんでいました。
最初と最後に書いていた、“普通のブログ”って何だろうか。
私の中では、毎日更新しているきょうのひとことではなく、
年末のまとめブログでもなく、
日常的な内容のことという意味で“普通のブログ”と書いたのだけれど、
読んだ方々もそう捉えていらっしゃるのか否か。
ん?
私はどうも“受け手”を意識する癖があるようです。←発見!
ブログを書くと考えの可視化ができるから脳内整理にとってもいいね。
2017年からライブ配信に気持ちが向いて、ブログに文章を書く気分にならず、
2018年9月の地震による停電生活からWEB全般で発信する気分自体が減ったのだけれど、
今、気分はブログに戻ってきた感じだ。
停電による気持ちの変化は、また今度書くことにしましょう。
私の“受け手”を意識する癖というものが
きのうの、(笑)の件にも通ずるなと感じたのです。
あと、(笑)をあまり使わないようにしようと今年思ったのでした。
(笑)がついている文章を見て(聞いて)、笑っていない私がいることに気づき、あ、気を付けよう。と思いました。
どうぞこれを読んでくださっている皆様はどんどん(笑)をお使いください。
私は使わないように気をつけます。
と書いたのですが、
その後、なぜ私は気を付けようと思ったのか考えていたのであります。
きのうのブログの冒頭に自分で書いた、
私は何を言いたいのか分からなくなり笑い出してしまった。
だけど笑っているのはきっと私だけだ。全然おもしろくない。
おもしろくなかったら笑ってはいけないのか、そんなことはない。
私がおもしろく感じて笑った主体であり、これを読んでいる人は文字を読んでいるだけだからおもしろく感じることはないであろう。だから私だけおもしろさを感じていればいいのですよ。だから全然おもしろくないというのは文章が足りていないがこれを読んでいる人は文字を読んでいるだけだからおもしろくないというのは正解かもしれない。
という部分に繋がっているじゃんと思ったのです。
主体である発信者がおもしろく感じていれば(笑)を使えばいいんだよね。
良い悪いとジャッジするのがそもそも要らないんだけれども、
良い悪いじゃなく、私が気を付けようと思ったきっかけに論点を戻すと、
(笑)とあるのを見ても(聞いても)、私にとって内容の面白さが分からなかったんだよね。
発信者が感じている面白さが、受信者の私には伝わっていない状態。
ここで「あなたは受信者にも選ばれていない人間なのである。」という考えは横に置いとかせてください。
「置いとかせてください。」って日本語としてどうなんだろいか。
いかになっちゃった。
いかといえばBUMP OF CHICKENの曲であるよ。
シングル「プラネタリウム」の隠しトラックで入っている曲。
特別に君だけにどんな曲かYouTubeのリンクをこっそり教えてあげるよ。→いか
2005年7月発売。もう13年前なんだね~。大学生の頃だ。
また話がどんどん逸れてしまいました。
「置いとかせてください。」って日本語として変だけどそのままでいいや。
そもそも全体の文章も変だ。
どうして私が(笑)のことについてこんなに書いているのだろうか。
まさにどうでもいいことだよね。
でもまだ飽きていないから続きを書くよ。
大好きな人が(笑)を使っていたとしても、
ノリが通じるので、何とも思わないのだけれど、
私が(笑)を使うのをやめようと思うきっかけとなった人物が使うことに対して
微妙に感じるのは、
きっとその人がどんな人なのか、よく分かっていないからなのかもしれないね。
波長が違うとか、考え方が違うということもあるだろう。
だからと言って、「その人を知ろう!出会いって素晴らしい!出会いに感謝!」とか言いたいのではなくてですね、
私が発信するものを、私のことを良く知らない人が受け取るときに、
その受信者がどのように受け取るのかを考えることは、
作品を創作する上でとても大切なことなんだわ。
そもそも使う人によって(笑)の定義が違う。
\(^o^)/のように使っているのかもしれないし、
私がへっへっへと書いている部分を(笑)にして使っているのかもしれないし、
私の大切な人は軽い洒落ですという感覚で使っているそうだよ。
以下、話は一転して一転しない。
今朝、大阪の友人ますちんがきのうのブログを褒めちぎってくださった!
「この意味の無さそうで、最後まで本当に意味の無いブログ大好き!!」だって!!
ご本人は褒めちぎったつもりはないだろうけれど、
私は意味がないっていうのが大好きだ。
ありがとうございます♪
意味がない!わぁーい!ヾ(●'∀'●)ノやったぁー!
意味を込めようが、受け取る側が意味を感じなければ、意味がない~♪
意味を込めないでやったことが、受け取る側が好きに意味をつけちゃうかもしれない~♪
これはとても重要なことだ。
1960年代~1970年代、世の中にコンセプチュアルアートが出現した。
前衛芸術運動のひとつ?で、日本では概念芸術とか観念芸術と呼んだりもするそうだよ。
「この作品にはこれこれこういう意味がありまして…」と、
説明文を読み(または聞いて)、脳内で完成する作品がある。
これだと“意味を受け取ろうと歩み寄る一歩”が鑑賞者に必要となる。
それが楽しい作品もあるけれど。
コンセプチュアルアートの代表的な作家のオノ・ヨーコさんの作品は好きです。
私自身が作品をつくるときには、観ただけで「わぁ~!なんやこれ~!あ、〇〇だ」と分かりやすく、さらに鑑賞者が感情を受け取ることができる作品をつくりたいと思っている。
あ、宇宙人がいる。
あ、ここになにかいる。
なんか可愛い。
なんか楽しい。
ほっとする。
明るい気分になる。
そんな感じが良いなと思っている。
だから、ますちんがくれた言葉は私にとって、とても嬉しい言葉に感じたのです。
しかし、きっとほかのわたしにとって微妙な人に「意味がない」と言われたらイヤなんだろうな、私。
あと、きのうのブログを読み返して思ったのですが、
私は“必要性があるかどうか”とすぐ考えてしまう癖がある。
必要性を考える癖があるなら、もっと部屋が綺麗なはずじゃないか!!と思いました。
私はそこまで必要性を考える癖はなかったようです。
きのうのブログで収納を揃えると気持ちがいいよねと書いたけれど、
画面上でも揃える作業をしている。
作業しつつ、ブログを書きつつ、作業をしつつ、ブログを書いている。
整えるのが好きな性格じゃなければ、向いていないだろうと思う。
私はこういう作業がとても好きだから楽しい。
私は描くとか塗るとか縫うとか整えるとか切るとか貼るとか何でも好きだから、
今のいろんなジャンルのお仕事がある状態がとても良いな有難いなと感じている。
整えるのが好きな性格ならば、もっと部屋が綺麗なはずじゃないか!!
仕事しよう。
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