今回のアメリカの旅一番の目的は、現代セラミックアーティストの巨匠、JUN KANEKO氏にお会いすることだった。
http://junkaneko.com/
JUN KANEKO special project より |
JUNさんは1942年愛知県名古屋市に生まれた。
17歳の時に登校拒否がきっかけで、趣味で絵を描いていた母が持っていた画集を見ているうちに自分でも絵を描くようになった。どんどんどんどん絵を描くことに夢中になったそうだ。
1963年夏、渡米。
アメリカに着くと待っていたのは絵を描くことではなく、陶芸であった。
アメリカに着いて生活を始めた家は当時としては珍しいアメリカ現代陶芸のコレクター、フレッド・マーラーの家だった。フレッド氏の本職は大学の数学教師であったが、陶芸家とも親しい。
フレッド氏とともにJUNさんは西海岸の陶芸家のスタジオを幾度も訪ねている。のちにJUNさんはアメリカの現代陶芸に触れているうちに自分でも作ってみようという気になったそうだ。
そしてジェリー・ロスマン、ピーター・ヴォーコス、ポール・ソドゥルナーらに教えを受ける。
1972年ニューハンプシャー大学陶芸学科長就任。翌年ロードアイランド・スクールオブデザインで教職に就く。75年に日本の様子を見に帰国。79年クランプルックアカデミー陶芸科の主任教授として招かれる。
他にもたくさんのことがあるが、書ききれない。
私が注目したのは「79年、最初の韓国訪問、大きなキムチ用壺の制作を探求」というところ。
JUN KANEKO special project より |
1983年、JUNさんはオマハにある煉瓦工場の窯が使われていないので、そこで何か仕事をしないかという誘いを受けた。
巨大な窯を前にしてJUNさんは初めは何をすればいいか見当もつかなかった。
新鮮であったという。そして、初心にかえることだと思ったそうだ。
大きなものを作りたいから大きな窯を探したのではなく、たまたま大きな窯がJUNさんの前に現れた。そこで何ができるか真摯に問いかけた結果としての、巨大な作品。
JUN KANEKO KYOTO 2014 より |
ここにわたしがJUNさんのことを書いているのは、作品集《JUN KANEKO KYOTO 2014》内の、「オマハ・プロジェクト ― 陶芸家・金子潤 私論 ― 」榎本徹 岐阜県現代陶芸美術館長の文章を参考にさせていただいているのだが、榎本さんの文章がとても魅力的。
榎本さんは陶芸に限らず、アートはローカリズムがその基本にあると思っていると言う。
「アートは、そのすべてが可能性の問題であり、ジャンルによる特性とか、めざすべき方向があるのではなく、作家の創造力にかかっており、その創造を支えているのが、ローカリズムではないかと思っているのである。その土地に住み、その土地で制作している必然が作品に自ずから現れ、さらにその事に真摯に応えることが、制作のキーポイントだと思うのである。~中略~個人が立ち向かう先にあるローカリズムこそが重要だといいたいのである。日本に生まれた金子が、アメリカでさまざまな陶芸を学び、そして出会ったのがオマハの巨大な窯だったのである。それは彼が探したのではなく、彼の目の前に現れたのである。そこに臨んだ金子がとった姿勢が、この大きな窯にふさわしい作品をつくりたいと考えたことと、初心にかえろうとしたことなのである」(オマハ・プロジェクト ― 陶芸家・金子潤 私論 ― JUN KANEKO KYOTO 2014 P47より)
JUN KANEKO KYOTO 2014 より |
世界のアーティストがJUNさんのもとに集まる。
陶芸作品とは思えないような超巨大作品を制作し、作品は億単位で取引され世界の美術館や公共の場所に展示されている。
JUN KANEKO KYOTO 2014 より |
世界各地で活躍しているアーティストに実際お会いしたいと思い、奇跡的な縁を手繰り寄せ、私は行動に出た。
着いた初日に、「今日なら会えるよ」ということで、
JUNさんにお会いしてきた。
数日後にはメキシコに行っちゃうから、ギリギリのベストタイミングで良かった。
やっぱり私はツイてるね。
イタリアご出身の奥さまREEさんと、作品集などの写真を撮っている日本人の写真家さんもご一緒。
REEさんもアーティストであり、ご夫婦でそれぞれ美術館も持っているというからすごい。
KANEKO 文化財団HP:http://thekaneko.org/
ご自宅で本場イタリアの奥さま手作りのパスタまで頂き、ゆったりと穏やかなディナーを共にさせていただいた。
世界から何かの展覧会などで賞を取った人でしか、JUNさんの所に来れないのに、私は運とツキと縁と見えない力のお陰でここまで来れてしまった。
自分の最強な運に、驚いてしまう。
みんなで日本酒で乾杯するため、たくさんの酒器の中から好きな作品を選ばせて頂く。
いろいろなアーティストさんの作品だ。
これは一部。
私はこれ!
私は天下のJUNさんに、日本酒を注いでいただいてしまった!(○_○)!!
有難き幸せ!!
JUNさんの作品集を見せていただいたときに、私も「自己紹介を兼ねて作品集を作ってきたのですが、見ていただけますか?」と伝えると、もちろんと応えてくださり、私の作品集を見てくださった。
2冊持ってきていたので、JUNさんと写真家さんに見ていただいた。
JUNさんは普段、人見知りで来客を好まないようだ。
でも終始穏やかで、私の作品集も食い入るように見てくださった。
REEさんに「ほれ、これ面白い」と、私のミルキーを貼ったトイレの写真を見せて、「おー!キュート!」と、REEさんが作品集を手に取り、他の作品も見ようとパラパラめくっていたら、「まだ最後まで見ていない」とJUNさんは奪い返し楽しんで見てくださった。
私は空間を作品と捉えていて、平面作品だけだと収まらなくなったことをお伝えしたら、ちょうど写真家さんとJUNさんで、日本人アーティストは作品単体を作っても、空間を意識していないよね、照明の当て具合とかさ…などと話をしていたところだったらしく、タイムリーな話題で、めっちゃリンクした。
JUN KANEKO KYOTO 2014 より 土管用ドーム型の窯内 |
あと私は、おじいちゃんおばあちゃんの死、愛犬の死、父親の死を通して、私は“死”というものを自分の制作に変化させていかないと気が済まないことや、前回の個展で、生まれる前と死んだら還る雲の上の世界を作ったと伝えたら、面白がってくださった。
1つの表現を極めるのではなく、いろんな表現方法を使って、空間の表現方法の手段を増やしていきたいこと。今は映像にも興味を抱いていることを話すと、
写真家さんが、JUNさんも舞台装飾や衣装も手掛けているし、元は油彩を描いていて、ひょんなことから陶芸家さんに弟子入りして、いろんなことをしているから、私と似ていると笑っていた。
写真家さんが、私の作品集を欲しいと仰ってくださって、試作状態のこれでもよろしければ、どうぞどうぞ、ありがとうございます!とお渡ししたら、
JUNさんも何も言わずに私の作品集を、私に返さずに受け取ってくださった。
「はい、見せてくれてありがとう」と、返されると思っていた。
見てくださるだけでも有難いことなのに、自分のものとして受け取ってくださった。
嬉しすぎる。
やっぱり作品集に自分の生い立ちやその時に感じたこと考えていたことなど書いておいて良かった。
帰りにはJUNさんのたくさんの作品集を頂いちゃった!
さて、この写真家さんも相当に凄い方である。
お名前は、畠山崇さん。
以下は滋賀県立陶芸の森よりコピペ。
1944年、大阪市生まれ。日本写真専門学校卒業後、印刷会社勤務。1974年フリーランスとなり、1977年頃から演劇舞台撮影、1977年からアート作品の写真を撮影しはじめました。
特に1979年京都で開催されたI.A.C(国際陶芸学会)の共催展”クレイワーク”展のカタログを手がけたのがきっかけとなり、京都を中心とする陶芸家の作品撮影や彫刻、ファイバーワーク、インスタレーション等を撮影してきたことで知られています。
写真家石元泰博氏を師とし、湖国の十一面観音、桂離宮、伊勢神宮他、関西での撮影の際のアシストをつとめた他、滋賀県立陶芸の森、MIHO MUSEUM、佐川美術館楽吉左衛門館等の開館カタログを手がけました。1983年以降、アメリカで活動する金子潤(KANEKO JUN)の多岐にわたる制作を追っています。
転載終了。
おぉ~またまたすごいお方と出会ってしまったよ。
今年10月にJUNさんの個展が京都にて行われる。
この時に再会出来たらとてもうれしいな。
左より、JUNさん、REEさん、わたし、畠山さん。 |
旅の初日からミラクルが起きた。
すべての人たちにありがとう。
紹介してくれたおじちゃんありがとう。