ラベル

2017年1月18日水曜日

チームラボの作品を観に行ってきたんよ。


1週間おあずけにしていたデートに行ってきた。
ファクトリーで行われていたチームラボの企画。私のあたまもコラボってるわ。

まずはランチ!!


スパイスのテーブルだぁ!!ランチはインドカレー!チャイがうまし!!

私はラムカレーのセットに、
サグチキンを単品で注文したよ♡
奇しくも、facebookの過去のこの日というもので、3年前のインドっぽい服を着た私が出てきた。
なんか、痩せて見えるね。笑
ま、マクロビ生活をしていた後だったから痩せていた。
おお、29歳のときか。

当時私が常連になっていたインドカレーのお店に食べに来ている時に、
テレビ番組のプロデューサーが取材交渉に来て、
あまり日本語の分からないシェフに私が片言の英語と日本語で話していたら、
番組プロデューサーから、あなたも出演してくださいと頼まれまして、
関西ローカル番組に出たときの私。

ぷぷぷ

私はまだ このお店の味を超えるサグカレーに出会ったことはない。
サグカレーとは ほうれん草のカレーね。
ここのインド人店主は、ドバイの七つ星ホテル ブルジュ・アル・アラブの料理人だった人。
料理長まで行ったのかな?

ドバイの七つ星ホテル ブルジュ・アル・アラブ(写真はHotels.comより)

ほんまに料理人と縁がある私。( ̄▽ ̄)




ずっと気になっていたチームラボの企画がサッポロファクトリーで行われるとのことで、
最終日に行ってこれた。北海道初上陸。

写真も撮影可能なので、せっかくやし会場にあったパネルのものを
すべて文字お越しして紹介しよう。



<チームラボアイランド -学ぶ!未来の遊園地->
お絵かき水族館 / Sketch Aquarium
teamLab, 2013, Interactive Digital Installation

自分で描いたものをスキャンしてもらい海の中を泳がせることができる。




共同的な創造、「共創(きょうそう)」


『共創』(共同的な創造性)のための
教育的なプロジェクトであり、実験的な場

現状ある多くの仕事は機械によって代行されていくと考えられています。今の子どもたちは、30年後、僕らが想像もつかない仕事に就いていることでしょう。これからの社会では、人間にしかできないこと、つまり共同的な創造性が最も大事になっていくのです。

人間は本来、共同的で創造的です。

しかし、現状の教育では、正解がひとつだけで、他はすべて不正解という問題の訓練ばかりです。逆に、自由な発想や他人と違った行動は、まちがったものとして矯正されます。それによって、無自覚に間違いを恐れ、本来の創造性を失っていっていくのです。

実際の社会に出ると、正解がひとつだけで、他はすべて不正解だということなんてありません。そして10年前の正解が、今不正解になっていきます。他人が喜ぶ新たな解答を創り出すことによって、新たな正解が生まれていくのです。創造性こそが、正解も不正解もない問題を乗り越えていくのです。
そして、現状、テストは個人で受け、個人の能力で評価されます。知らずに、個人主義を徹底的に叩き込まれているのです。さらに、現代の多くの人々は、スマートフォンに夢中になっています。身体は徹底した個人になってしまっていて、共同性を育む機会が減っているのです。
人間は、自由な他者と共に、身体を動かしながら身体でものを考えています。そして、人間は、他者と共に創造的な活動によって、この世界を創ってきたのです。
共創の体験こそが、今、人々にとって非常に大事なのではないかと考えています。
チームラボのアートの「人々の関係性を変化させ、他者の存在をポジティブな存在に変える」可能性にフォーカスを当てることによって、往々にして個人的になりがちな創造的な活動を、他者と互いに自由なまま、共創的な活動に変えることが出来るのではないかと考えているのです。
共創を楽しむ体験によって、日々をより共創的なものへ変えていけるのではないか、そのような思いからこのプロジェクトは生まれました。




私も魅惑なリップのカメを描いたよ。


すいすい泳いでいくさまが愛おしすぎた。


私も自由にすいすいこの世界を泳いでいこう。

しっぽにハートがついてるの。





小人が住まうテーブル/ A Table where Little People Live
teamLab, 2013, Interactive Digital Installation
子どもたちが触ったところや置いた物に反応して小人が動いたり、雨が降ったりする。




つくる!僕の天才ケンケンパ / Create! Hopscotch for Geniuses
teamLab, 2015-, Interactive Digital Installation, Sound: teamLab
〇△口にうまく乗ることができると音が出て、映像によって映し出された床は美しく光る。


Digital Art
デジタルという概念は、美を拡張する
チームラボは「デジタルという概念が美を拡張する」と信じている。
そして、デジタルアートによるアートと人との新しい関係性を模索し続けている。

デジタルテクノロジーによって、表現は物質から解放され「変容」可能な存在になる
人類がデジタルという概念を手にする以前、人間が生み出す表現や情報は、紙とインクのような質量を持つ物質に媒介されないと存続できなかった。しかし、デジタルテクノロジーによって表現や情報は物質から解放され、表現単独、情報単独で存続しうるようになった。アート作品においても、たとえば絵画はキャンバスや絵の具という物質を媒介することで存在する。人間の表現は、物質に媒介して存続でき、そのため固定的に存在していた。しかし、物質から解放された表現は、表現単独で存続できるようになり、自由に「変容」可能な存在になったのだ。

拡大性と空間適応性
表現が「変容」可能な存在になったことにより、デジタルアートは「容易な拡大」が可能となる。もしくは、空間への、より自由度の高い「空間適応性」をもったとも言える。作品はより巨大化・空間化しやすくなった。鑑賞者は、以前よりも作品を直接的に「体感」するようになるだろう。
テクノロジーによって、変化そのものを表現できる
変容可能な存在になったことで、作品は「変化そのものをより自由に、より厳密に表現」し、作品そのものがどのように「自らを永遠に変化」させるかということも表現可能になった。そして、鑑賞者や環境や状況によって、どのように作品を変化させるかということすら表現できるようになったのだ。つまり、作品を鑑賞者に対して「インタラクティブ」(双方向的)にすることで、鑑賞者が作品へ容易に「参加」することができるようになった。

Relationships Among People
人々の関係性を変化させ、他者の存在をポジティブな存在に変える
例えば、絵画は鑑賞者の存在やとなりの人のふるまいによって変化しない。作品は個人との関係の上に成り立っている。少なくとも、これまでのアートの多くは、鑑賞者にとっての他者の存在は、単に邪魔な存在だった。展覧会で人がいなければ、すごくラッキーだと思う。
作品が、鑑賞者の存在やふるまいによって変化する時、鑑賞者と作品との境界線はあいまいになる。作品は、鑑賞者を含めて作品となっている。そして、同じように、他者の存在でアートが変化したとき、他者もアートの一部になる。そのことは、作品と個人との関係を、作品と集団との関係へと変えていく。5分前に他の鑑賞者がいたかとか、今、となりの人がどんなふるまいをしているかが、重要になってくる。
そう、デジタルアートは、同じ空間にいる人々の関係性に変化を与えることができるのだ。
そして、他者がアートに介入したり操作したりする意思があるかないかは関係なく、他者の存在によるアートの変化が美しければ、他者の存在はポジティブなものにもなりえる。
アートだけではなく、近代の都市において、他者の存在は人間にとって不快なもの。理解もできないし、コントロールもできない他者が周囲にいることは、我慢して受け入れるものだった。それは、都市が自分や他者の存在によって、変化しないからだ。都市が、デジタルアートになるならば、都市においても、他者の存在がポジティブな存在になる可能性があると考えている。そのように、このデジタルアートによる人々の関係性への模索は、アートの領域を超え、都市と人々のあり方や、人々のピースの新しい成り立ち方を創っていける可能性がある。

『 花と人、コントロールできないけれども、共に生きる 』
一時間を通して、一年間の花々が咲いては散り、変化していく。 
花は生まれ、成長し、つぼみをつけ、花を咲かせ、やがて散り、枯れて、死んでいく。つまり、花は誕生と死滅を、永遠に繰り返し続ける。 花は、鑑賞者のふるまい(ある一定の距離間でじっとしている、もしくは、花に触ったり、踏みながら歩きまわること)によって、花は、より生まれいっせいに咲き渡ったたり、もしくは、いっせいに散り死んでいったりする。
作品はコンピュータプログラムによってリアルタイムで描かれ続けている。あらかじめ記録された映像を再生しているわけではない。全体として以前の状態が複製されることなく、鑑賞者のふるまいの影響を受けながら、変容し続ける。今この瞬間の絵は二度と見ることができない。 
春、国東半島に訪れた際、山の中の桜やふもとの菜の花を見ているうちに、どこまでが人が植えたものなのか、どこまでが自生している花々なのか疑問に思った。そこは多くの花に溢れ、非常に心地よい場所だった。そして、花が多いということは、その自然が、人の営みの影響を受けた生態系であることを感じさせる。どこまでが自然で、どこからが人為的なのか、境界が極めてあいまいなのだ。つまり、自然と人間は対立した概念ではなく、心地良い自然とは、人の営みも含んだ生態系なのであろう。そして、近代とは違って、人間が自然を完全に把握することができない、完全にコントロールすることができないという前提で、自然のルールに寄り添った人の長い営みこそが、この心地良い自然をつくったのではないだろうか。この谷間の人里は、近代以前は海路によって栄えたが、陸路中心に変わった近代以降、長らく陸の孤島となった。そこには、近代以前の自然と人との関係が、ほのかに残っているように感じられ、コントロールできないという前提の下での、自然への人為的な行為とはどのようなものなのか考えさせられたのだ。

<アート作品>
花と人、コントロールできないけれども、共に生きる / Flowers and People, Cannot be Controlled but Live Together - A Whole Year per Hour
teamLab, 2014 -, Interactive Digital Installation, Endless, Sound: Hideaki Takahashi
わたしの影。おかげさま。


超主観空間 / Ultra Subjective Space
近代以前の知、古来の日本の空間認識
人類が長年培ってきた古来の文化的知の中に、近代社会とは相性が悪かったために捨てられたものが多くある。
我々はそれら中に新しい社会のヒントがあるのではないかと信じている。
特に近代以前の日本の空間認識は、一体どんなものであったのか、ということを模索してきた。

世界が、日本画のように見えていた
日本の人々は、近代以前の19世紀後半まで、今とは違ったふうに世界を捉えていて、今とは違ったふうに世界が見えていたのではないだろうか。
一般的に伝統的な日本画は観念的だとか平面的だとかと言われているが、当時の人には、空間が日本画のように見えていたのではないだろうか。そして、現代人が遠近法の絵や写真を見て空間を認識するように、当時の人々は、日本画を見て空間を認識していたのではないだろうか。
つまり、西洋の遠近法とは違う論理構造が発達した空間認識があったのではないかと。近代以前の日本自体がアジアの影響を多大に受けているので、古来のアジアの空間認識とも言えるかもしれない。


古来の日本の空間認識を、我々は「超主観空間」と呼ぶ
チームラボは「デジタルという新たな方法論によって、その論理構造を模索する」というサイエンス的なアプローチを試みている。具体的には、コンピューター上に立体的な三次元空間の世界を構築し、日本美術の平面に見えるような論理構造を模索した。そしてこの論理構造を、我々は「超主観空間」と呼んでいる。
我々は平面に絵を描いてアニメーションを作っているわけではなく、作品世界を三次元空間上に立体的に構築し、それを「超主観空間」によって平面化することで作品を作っている。論理的に平面化することによって、永遠に変化し続ける作品や、インタラクティブ(双方向的)な作品を作ることができる。そして、作品を作ることを通して「超主観空間」の平面の特徴や現象を発見し、それを利用することによって新たな視覚体験を試みたり、近現代の人々の世界の捉え方への問いを投げかけたりしている(図1、図2)。

人間の目は写真や遠近法のように見えない
西洋の遠近法で描かれた絵(図3)を簡略化すると、画家の視点(図4、青い人型)を原点として、扇状の空間が描かれていることになり(図4)、鑑賞者は描き手の視点で世界を見ていることになる。
さて、近代以前の日本の人々は、日本画(図5)のように世界が見えていたと仮定し、画家を(図6、青い人型)とすると、図6の水色の部分が見えていることになる。 このように世界が見えるはずがないと思うだろうが、遠近法や写真もまた同様に不自然なのである。
ある瞬間の肉体としての目が見えている部分は、自分で認識しているよりも極めて狭く、極めて浅い。遠近法や写真のように広い空間は見えていない。しかし、人間には時間軸があり、眼球を動かすことができるし、目のフォーカスも動かしている。狭くて浅いフォーカスで得た多くのイメージを脳で合成し、写真や遠近法の絵のように見えている気がしているだけだと考えられる。つまり人間は目という極めて貧弱なカメラで何枚も何枚も連続して周囲を撮影し、そうして得られた大量のイメージを一定の論理構造を使って脳内で合成し、空間として理解しているのだ。人は首を振るし、移動もする。合成に使うために過去にさかのぼる時間は増えるかもしれないが、遠近法とは違った論理構造を使って脳内で合成していたと思えば、図6のように世界を認識していたとしても、不思議ではない。

絵を見ながら、絵の中に入り込める
西洋の遠近法による絵画や写真を見ているとき、その中の登場人物(図7 赤い人型)になりきってると、見えている風景が変わってくる。正面を向いた肖像画の人物になった気になると、鑑賞者がいる世界が見えることになる(図7ピンク色の部分)。
むかしの日本の人々には、図8のように世界が見えていたと仮定する。鑑賞者は日本画を見て、同時に画の中の登場人物(図9、赤い人型)になりきってみるとすると、図9のピンク色の部分が見えている部分になる。つまり、登場人物に見えている風景は、画とほとんど変わらないことになる(図9)。画を見ながら、 画の中の登場人物になりきったとしても、そのまま同じその画の中の光景を見続けることができるのだ。つまり「画を見ながら、画の中に入り込む」ことができ、鑑賞者は鑑賞者のまま画の中を自由に動き回ることができるのである。

鑑賞者中心に鑑賞できる
カメラで対象物の近くに寄って撮った写真をつなぎ合わせてひとつの全体写真をつくったとする(図10)。しかし、それはカメラで遠くから対象物全体を写した写真(図11)とはまったく別ものになってしまう。西洋の遠近法では、近くの視点での(投影面に対象の空間のごく一部が写っている)平面をいくつかつなぎ合わせて(図10)、遠くの視点で空間全体を認識した(投影面に空間全体が写っている)平面(図11)を作ることはできない。
「超主観空間」では、空間の一部を細かく認識した平面をつなぎ合わせた平面(図12)と、そ の空間全体を認識した平面(図13)は、論理的に同等になる。それは「鑑賞者中心に鑑賞できる」ことを意味する。つまり、ある絵画を、絵画全体を見える位置から見ているときには、その絵画が表している空間全体の中に鑑賞者たる自分もいることになるだろうし、絵画に近付いて、絵画の一部しか見えない位置から凝視すれば、その凝視している部分が表している空間の中にいることにもなりうる(図12)。縦横無尽に好きな場所から絵を鑑賞できるということである。そして、それは「視点が限定されず、視点の移動が自由」であることを意味する(図13)。
日本美術の絵巻やふすま絵は、こうした特性によって生まれたのではないかと考えている。絵巻は、机の上などに置いて、左手で新しい場面を繰り広げ、右手で巻き込んでいきながら、自由にスクロールしつつ見ていく。つまり、超横長の絵を好きなように部分で切り取って見ているともいえる。そして、ふすま絵は、動くことが前提のキャンバスの上に描いている。

折ったり、分割したり、つなぎあわせたり
そして「超主観空間」の平面は、自由に「分割」できることを意味する。分割した絵画を見れば、その部分が表している空間の中にいることになるからである。分割できるということは「折る」ことも可能にする。写真や、遠近法の絵画を「折ったり、分割したり」するなんてありえませんが、日本美術ではよくあることである。屏風は、折る前提のキャンバスであり、ふすま絵は、分割することが前提のキャンバスなのだ。
そして、平面をつなぎ合わせた平面と、全体認識した平面は同等になるということは、自由に平面をつなぎ合わせることで、画家が描いた空間とは別の架空の空間を自由に創ることもできるということなのだ。

自分と世界との境界がない
むかしの人々が「超主観空間」で世界を見ていたならば、自分が見えている世界と、見えている世界の中にいる人が見えている世界はほとんど変わらないことになる。つまり、自分が見えている世界の中にいる人になりきることが容易だったり、自分が見えている世界の中に自分がいるような感覚を感じやすかったりするということだ。 西洋の遠近法や写真のように世界を見ているときは、見えている世界が違うので見えている世界の中の人になりきったり、見えている世界の中に自分がいたりすることはできない。
そう考えると「世界の見え方」と「世界に対するふるまい」との間のつながりについて、新しい見方ができるような気がしてくる。むかしの日本の人々にとって、自然とは観察の対象ではなく「我々自身も、自然の一部である」と考えているようなふるまいをしていた。
それは、何かの考えや思想によって、自然の一部であるようなふるまいをしたのではなく、単に、むかしの日本の人々は、自分が見えている世界の中にいるモノたちになりきったり、自分が見えている世界の中に自分がいるような感覚を感じやすかったから、そうしたのではないかと思うのだ。つまり「超主観空間」で世界を見ていたから、自分と世界との境界がないような感覚になりやすく、そのようなふるまいになったのではないだろうかと考えている。
西洋の遠近法や写真のように世界を見ているならば、自分と、自分が見えている世界が完全に切り分かれ、はっきりとした境界ができ、自分が見えている世界に自分は存在できません。つまり、世界は、観察の対象となる。だからこそ西洋では、サイエンスが発展したのかもしれない。
「我々は、地球の一部である」と、声高に唱えられている。そして、人々は、そのことを十分に頭では理解している。しかし、人々は、まるで、自分と世界との間に、境界線がはっきりとあり、世界は、自分がいる場所とは違う世界であるかのようにふるまっている。
それは、もしかしたら、現代社会においては、写真や実写の映像などが溢れすぎていて、世界をあまりにも写真と同じように認識してしまい、それゆえに、人々は世界を、自分がいる場所とは違う世界であるようにふるまってしまうのではないだろうか。

超主観空間とデジタルアート / Ultra Subjective Space and Digital Art
「超主観空間」は、デジタルアートの、作品に参加し体感すること、つまり作品が人々のふるまいによって自由に変化することや、人々が空間の中を自由に歩き回りながら作品を体感することに対して、大きな可能性を持つ。
鑑賞者は、一点にじっと立ち止まって作品を鑑賞する必要もなければ、鑑賞している時にとなりの人を邪魔だと思う必要もない。そしてアートは、その魅力を維持したまま人びとの参加によって変化することもできる。鑑賞者もアート自体もより自由になれる。
同様にすべての文化圏でも、近代になってから捨てられた古来の文化的知が、新しい社会において想像をもしないような形で花開く可能性があるのだ。

「空間適応性」と「折ったり、分割したり、つなげたり」
屏風やふすま絵のように「超主観空間」によって平面化された作品空間は、平面を“折ったり・分割したり”しても、不自然にならない。それは、デジタルによる作品の「空間適応性」と極めて相性が良い。それは“折ったり・分割したり”することによって、平面を実際の鑑賞者がいる現実空間に再構築し、新たな作品空間を自由に創ることができるからである。

巨大空間と、視点の移動
西洋の遠近法による平面は、鑑賞する場所が、鑑賞者にとって固定的な一カ所のベストポジションが設定されている。しかし「超主観空間」による平面は、鑑賞する場所が限定されず、視点の移動が自由になる。つまり、鑑賞者は縦横無尽に好きな場所から絵を見ることができるのだ。デジタルの「拡大性」と「空間適応性」によって、デジタルアートは容易に、巨大空間になる。従来の絵画は、鑑賞者が一カ所に立ち止まって見るものであった。しかし「超主観空間」による平面の場合、鑑賞者は巨大なアート空間の中を自由に歩き回りながら、作品を鑑賞することができる。

現実空間と作品空間を自由に行き来する
「超主観空間」の平面は、客観的に絵を見ながら、絵の中に入り込めるという論理的な特徴を持っている。そのため、デジタルにより巨大な空間となった「超主観空間」の作品で、鑑賞者は現実空間を認識したまま、まるで作品空間の中を歩いているかのような体験をすることができる。

すべての鑑賞者が自分を中心に作品に「参加」する
「超主観空間」による平面は“限定された視点を持たない・消失点がない”ため、投影面やその焦点距離といった概念がない。そのため、巨大な作品であったとしても、どこからでも“鑑賞者中心に作品を体験”することができる。そして、作品が“インタラクティブ”(双方向的)であったとき、鑑賞者が中心となって作品を変化させることと相性が良い。 つまり、すべての鑑賞者が優越なく作品へ参加し、自分中心に、自分とまわりの人の影響を受けた作品を鑑賞することができるのだ。

『 世界はこんなにもやさしく、うつくしい 』
鑑賞者の影が文字に触れると、その文字がもつ世界が表れ、世界を創っていく。そして文字から生まれたものたちは、世界の中で互いに影響し合う。
投影された世界の裏側には、360度広がる空間があり、文字から生まれたものたちは、空間上のそれぞれの位置や、それぞれが持つ知能や関係性、物理的な影響などによって、互いに影響を受け合いながら、空間上でリアルタイムに計算され、複雑かつ自然な世界をつくっていく。風が吹けば、風の物理的な影響を受け、蝶は火が嫌いだけれども、花が好きで、花に近づいていく。自然の景色に同じ瞬間がないように、同じ瞬間は二度となく、常に初めて見る景色を創り出す。
漢字が亀の甲羅や牛や鹿の骨、青銅器に刻まれていたころ、漢字の一文字は、ひとつの世界の部分を持っていた。漢字を通して鑑賞者どうしが呼び出した世界は、連続し、互いに相互作用を与えながら、世界は創られていく。



<アート作品>
世界はこんなにもやさしく、うつくしい / What a Loving, and Beautiful World
Sisyu + teamLab, 2011, Interactive Digital Installation, Endless, Calligraphy: Sisyu, Sound: Hideaki Takahashi


『 追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点 』
7画面を立体的に配置したデジタルインスタレーション。 
コンピュータ上の三次元空間に立体的に構築した世界を、我々が考える日本の先人達の空間認識の論理構造「超主観空間」によって、平面化し映像化にしている。 光の八咫烏が空間を飛び回り、その軌跡が光跡となり光の空間に描く書『空書』を描いている。烏が空中を互いに追い追われつつ、花となって散っていく。 
日本のアニメが生んだ表現のひとつに、アニメーター板野一郎によって確立された「板野サーカス」というものがある。画面いっぱいに埋め尽くすほど大量に発射されたミサイル群が、まったく正しくないパースペクティブで描かれた(より人間がダイナミックさや迫力を感じるようにデフォルメされて描かれた)空間を乱れ飛ぶさまを、超高速のカメラワークによる視点の回り込み演出による映像美であるとされ、80年代以降のアニメーション表現に大きな影響を与えた。 
本作品は、板野サーカスをオマージュし、二次元のアニメーションで行われていた空間のデフォルメを三次元空間で再現することによって、日本のアニメーター達が生んだデフォルメされた空間とは、どのような空間認識の論理構造であるか、それらは伝統的な日本の空間認識の連続性の中にあるのではないかという仮説の模索である。そして、デフォルメされた空間を三次元空間で再現することによって、平面化した時自由に横に広げ、実際の現実空間に再構築することを試みている。そして平面を分割し、分割された平面を現実空間に立体的に配置することによって、どのような体験になるかという実験でもある。


<アート作品>
追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点 / Crows are Chased and the Chasing Crows are Destined to be Chased as Well, Division in Perspective - Light in Dark
teamLab, 2014, Digital Installation, 4min 20sec (loop), 7 channels, Sound: Hideaki Takahashi


ずっと行ってみたかったチームラボの作品だが、
長くこの空間にいると酔ってしまった。
空間では香りも放っていたよ。視覚嗅覚。空間感覚。聴覚。触覚。

触覚といっても、そんなにないかも。
手を出すとそれに反応して映像が動くという感じだよね。

これ、全盲のコンちゃんが来ても光ばかりで楽しめないよなぁとも思った。
触れてもすべて布のような壁。
楽しめるのは香りくらい?
全盲の人が楽しめるアートとはどんなものなのだろうか。

つめたい あつい
ぷにょぷにょ
ぼよんぼよん
ざらざら
ぼこぼこ
なみなみ
甘い香り
スパイシーな香り



デジタルの空間に居たらファインアートが恋しくなったよ。

ファインアートとは油絵とか版画とかね。

あと手に取る質感とかも、私は好きなんだなとあらためて思ったよ。

これはチームラボを否定するものではなくて、
チームラボはチームラボにしかできないアートを創ってくれていて、
私は私が創りたいものを、創っていけばいいんだよね♡って思った。


それにしても、これ、めっちゃたくさんの人数で計算されて作られているんだよね。
すごすぎる。
「小人が住まうテーブル」を映すプロジェクターとセンサー。
チームラボはたくさんの人たちで運営されている。もはやアートというより会社だよね。




このめっちゃ大きな空間をすべてネアリカにしたらオモロいな。

むふふ♡

私のネアリカの個展では、空間をネアリカで包むような個展にするんだ♪

参加者の人も参加できるネアリカ作品空間にしよう。




「 世界はこんなにもやさしく、うつくしい 」というタイトルを見たらAKIRAさんの歌を思い出したよ。

すべての自由な魂へオレはこの歌を捧げたい
すべての夢追い人たちを旅立たせるためここへきた
世界は豊かで果てしなく笑えるくらいに愚かしい
世界はせつなく愛おしく泣きたいくらいに美しい

って。


無条件の愛に入ってるよ。

「 花と人、コントロールできないけれども、共に生きる 」というタイトルを見たらおがわとーるさんの歌を思い出したよ。

ともに生きるという曲。まだアルバムになっていない名曲。
アルバムができるの楽しみだね。