どこかのあの頃の私のままだろうか。
私は常に変わり続けている。
いまの私はあの頃の私とは矛盾したことを発言しているだろう。
私のなかにいるきみはあの頃のままかもしれない。
きみは今、どんなきみになっているだろうか。
私は変わり続けるから、
きみがどんなに考えや思考が変わろうがすべてを受け止める。
きみがきみという存在、そのままで存在していればいいんだ。
何をしたっていいんだ。
前回のブログで、映像編集のソフトが立ち上がらなくなった!とお伝えしましたが、
私にはノートパソコンちゃんがいるではないか!と思い出し、
すべての解決にはなってはいないが、
師匠のブログに載せる分の動画はなんとかなりそうです。ひとまず良かった!
仕事場に生きてるお花がほしくて、お花屋さんをはしごして選んできたお花ちゃん。
わたしの新しいおともだち。
寝る時もいっしょ。
オレンジに塗った壁に映えるねえ~。
今日、2月19日は大森南朋さんのお誕生日である。
おめでとうございます。
現在、私は師匠の名言写真集を制作中であるが、
私は大森南朋さんの写真集を参考にさせていただいている。
撮影は松田美由紀さん。
編集・制作はNEO株式会社。
中身は無断転載できないので載せることが出来ないが、
以前、師匠にこんなかんじで創ろうと思うんだとこれを見せて伝えた。
師匠も私がやろうとしていることをわかったと言ってくれ、
動きのある写真を撮ったりと、なかなかオモロイ写真を撮ったりした。
名言写真集にはそれも入れる予定だ。
しかしイイ写真がありすぎて、
イイ写真なのに名言との組み合わせによってとか、
服がかぶりすぎてしまったりで、使いたいのに入れれないという事態が発生してしまっている。
これはもったいないので、他の手段でカタチにする。
じぃじに22時から02時のあいだは寝た方がいいぞと言われた。
元極悪人から普通のアドバイスをされた私は昨夜22時に寝てみた。7時半に起きた。
いっぱい寝た。
夢にこの世にはいないパパが出てきた。
「あまり歴史を信じすぎるなよ」とアドバイスされた。
私は教科書で勉強するような国々の歴史のことだと夢の中でとらえていたが、
今になって感じるのは、
ひとりひとりが持つ歴史ということもありえるなということだ。
だからといって、みんなを信用しないという意味ではない。
歴史とは過去に過ぎない。
みんな心境の変化があり、環境も変化している。
考え方も変化している。
元極悪人のあきらじぃじも、今ではすっかりまるくなって健康的に生きている。
つまり、今を生きろといつも言っているし、じぃじにも言われるが、
“今”の相手を見ろということも言えるよね。
相手の過去ばかり見るな。
先日メモしていた言葉がここにつながるかもしれない。
きみのなかにいる私はアップデートされているだろうか。
どこかのあの頃の私のままだろうか。
私は常に変わり続けている。
いまの私はあの頃の私とは矛盾したことを発言しているだろう。
私のなかにいるきみはあの頃のままかもしれない。
きみは今、どんなきみになっているだろうか。
私は変わり続けるから、
きみがどんなに考えや思考が変わろうがすべてを受け止める。
きみがきみという存在、そのままで存在していればいいんだ。
何をしたっていいんだ。
努力はしてみるが、わからないものは無理してわかろうとしないことにするよ、私。
しかしその努力は必要なものなのか?
という今日のブログのタイトル。
先日「愛の顛末」という舞台を見てきた。
全然わかんなくて、ストーリーや世界観に入り込めなくて、
(入り込めなかった一因は、演劇の会場って席が狭くてたくさんの人の中で距離が近くて人酔いしてしまったというのがあるのだけど)
あぁ私は内容についていけない。よくわかんない。どうすればいいんだ状態だった。
だからよくわからなくて焦るくらいなら、
わからないものはわからないままにしておこうと思ったんだ。
みんなは絶賛しているからみんな観ておいたらいいと思うんだ。
顛末といえば、昔の職場で顛末書を書いたのを思い出した。
顛末というのは、物事のはじまりからおわりということで、出来事のながれを書けばいいだけなのだけれど、始末書を書くときと同じ気分になったことを思い出した。
わからないものはわからないのだが、
よく、相手にわかってもらおうとしてドタバタしている人っているよね。
私もそうだったけど。
相手がわかるように説明の仕方を工夫するとかは必要かもしれないけれど、
わかってくれない!!とイライラする必要はないと思うんだ。
いちいちわかってもらおうとしなくていい。
まえにも言ったテリトリーの話だよね。
わかるかわからないかは相手のテリトリーの話。
言わなくてもわかってよ!察してよ!っていうのは相手に多大な期待をしているっちゅーこと。
とりあえず、感じていること思っていることを素直に発信するのがいいと思うよ。
照れずにね。
期待はやめよう。
私は教科書で勉強するような国々の歴史のことだと夢の中でとらえていたが、
今になって感じるのは、
ひとりひとりが持つ歴史ということもありえるなということだ。
だからといって、みんなを信用しないという意味ではない。
歴史とは過去に過ぎない。
みんな心境の変化があり、環境も変化している。
考え方も変化している。
元極悪人のあきらじぃじも、今ではすっかりまるくなって健康的に生きている。
つまり、今を生きろといつも言っているし、じぃじにも言われるが、
“今”の相手を見ろということも言えるよね。
相手の過去ばかり見るな。
先日メモしていた言葉がここにつながるかもしれない。
きみのなかにいる私はアップデートされているだろうか。
どこかのあの頃の私のままだろうか。
私は常に変わり続けている。
いまの私はあの頃の私とは矛盾したことを発言しているだろう。
私のなかにいるきみはあの頃のままかもしれない。
きみは今、どんなきみになっているだろうか。
私は変わり続けるから、
きみがどんなに考えや思考が変わろうがすべてを受け止める。
きみがきみという存在、そのままで存在していればいいんだ。
何をしたっていいんだ。
70年以上にわたり、おせわになりました。
ありがとうございました。
おじいちゃんおばあちゃんの家のときからそばにいてくれてありがとう。
努力はしてみるが、わからないものは無理してわかろうとしないことにするよ、私。
しかしその努力は必要なものなのか?
という今日のブログのタイトル。
先日「愛の顛末」という舞台を見てきた。
全然わかんなくて、ストーリーや世界観に入り込めなくて、
(入り込めなかった一因は、演劇の会場って席が狭くてたくさんの人の中で距離が近くて人酔いしてしまったというのがあるのだけど)
あぁ私は内容についていけない。よくわかんない。どうすればいいんだ状態だった。
だからよくわからなくて焦るくらいなら、
わからないものはわからないままにしておこうと思ったんだ。
みんなは絶賛しているからみんな観ておいたらいいと思うんだ。
顛末といえば、昔の職場で顛末書を書いたのを思い出した。
顛末というのは、物事のはじまりからおわりということで、出来事のながれを書けばいいだけなのだけれど、始末書を書くときと同じ気分になったことを思い出した。
わからないものはわからないのだが、
よく、相手にわかってもらおうとしてドタバタしている人っているよね。
私もそうだったけど。
相手がわかるように説明の仕方を工夫するとかは必要かもしれないけれど、
わかってくれない!!とイライラする必要はないと思うんだ。
いちいちわかってもらおうとしなくていい。
まえにも言ったテリトリーの話だよね。
わかるかわからないかは相手のテリトリーの話。
言わなくてもわかってよ!察してよ!っていうのは相手に多大な期待をしているっちゅーこと。
とりあえず、感じていること思っていることを素直に発信するのがいいと思うよ。
照れずにね。
期待はやめよう。
映像編集しながら
花を愛でながら
写真集編集しながら
音楽を聴きながら
ママが創ってくれた生ラーメンを食べながら
ブログ用の写真を撮る。
みなさん、ながら作業はやめましょう。